生と死に近づく

竹内結子が急死したニュースを見た。それ自体はもちろん驚きを禁じ得なかった。近ごろ有名人の死が何か目立つことをどう捉えればいいのか分からないし、死から遠そうなイメージの人が突然命を絶った(自死の可能性があることを各社の報道が伝えている)ことに、何かしら心をかき乱される。

自分からは全く遠い人ではあるが、自分が持っていた…というかメディアによって形成されていた、死からかなり遠そうなイメージを突然裏切る、いや断ち切るような出来事だった。特に彼女は、今年子供が生まれたばかりということも知っていて、そのコントラストに愕然としてしまう。

有名人の(おそらく)自死は、ありきたりな表現ではあるが、水面に波紋を遠くまで広げ、自分の心中にもまた波を広げてしまう。関係ない人にとっては一人の死だが、子供がいる身としては共鳴するポイントがあって、その小波は自分をかき乱す。

そんなことを知ったのち、出張ロケで機材準備のため出社。システム上の申請などを確認するため社内システムを覗く。確認ののち、周知欄を見ると訃報が出ていた。

社内システムに載る訃報は月1〜2件必ずある。ありきたりの出来事に過ぎない。顔も名前も知らない、関わりもしない部署の社員の親類か、これまた名も顔も知らない、かつての役員本人の死が掲示される。大抵の場合は、家族葬で済ませたので弔問不用、そっとしておいてくれ的な話が追加で載っている。まったくもって、自分とはなんの関係もない話。

ところが今日見た訃報は違った。よく知る先輩の妻が、くも膜下出血で今月初頭に亡くなっていたという話だった。それを何故か月末近くの今になって周知する文書。

先輩は社内結婚組。その亡くなった奥さんも僕はよく知っている。二人の間の子供は二人。仲が良いのかそうでもないのか、細かいことは知らないが、とにかく多忙な中二人で懸命に子育てしているのは皆が知っているところだった。

それが今月頭に、その奥さんが亡くなっていたのだという。死因はくも膜下出血。おそらく予知も何もできない出来事で、突然彼女の命がたたれたことが、淡々と周知文書のフォーマットに沿って書かれていた。

コロナウイルス対策のお陰で在宅勤務がそれなりに浸透し、社内でいろんな人と顔を合わせることがかなり減っていた最中、3週間遅れでよく知る人の死を知る。そして、死んだ本人も先立たれた夫も、どちらもよく知る人だった。

竹内結子の死でふとざわついた心が、さらに直接的な死でぐるぐるとかき回され、落ち着かない心地が加速する。当然、この文書にも、家族葬で済ませたので弔問不用、といういつもの文言がついている。

その先輩に何か言うべきか言わざるべきか、それすらもよく分からない。そもそも顔を合わせないので、声をかけるならメールか社内チャットしかない。弔問不用と主張する出来事、しかも月初に起きたことをわざわざ月末近くになって公表するというややもすると奇妙なほどの慎重さに対し、自分からわざわざメッセージを投げかける勇気は僕にはない。やり場のない気持ちがぐるぐると渦巻く。だがどうしようもない。

システムを閉じ、機材の準備を済ませてロケに出る。明日の朝一からの撮影のため、今日は移動だけすれば良い。昼過ぎの飛行機移動で、夕方にはロケ先着。ホテルで一服したのち、外に出る。

ホテルの周りは歓楽街。既婚者だから、子がいるからというタガをなんだか外したくなり、それの店でそれなりの行為をする。明るい女性が後腐れなく、ただ純粋に肉体的な心地よさを追求してくれる時間。今夜のそれは、これまでこうしたお店で体験したものの中でベストのそれだった。

ここでの行為は、生命の営みをある種ダイレクトに感じるものだ。死でかき乱された心が、その行為との相反性により、不思議に補完されていったように思う。ぐしゃぐしゃになった心を、対価を払うだけという軽やかさが膨らませる。

生きることと死ぬことは割と接近している。不思議に感じ入る日だった。